いまや当たり前になりつつある、編み物に関わる男性にスポットを当てた過去毛糸だまの人気特集をピックアップ!
「2020年毛糸だま冬号」より
東京・森下の高橋商店街にある糸屋さんのドアを開けると、カウンターで迎えてくれるのが、こちらの男性。創業明治29年、芳野屋糸店の5代目・鈴置克明さんです。
現在はご両親と3人でお店を営んでいる鈴置さんですが、以前は大手建築会社でサラリーマンをしていたそう。入社当時、周りからは、すぐに辞めるだろうと思われていたのだとか。
「お前みたいなヤツ、うちの会社にいないからって(笑)。若い頃からサーフィンが好きで、土日は現場だから、本当は仕事に行かないといけないんですけど、『海に行かないといけないんで』ってひとりだけ休んでいましたね(笑)」
そんなハートの強さもご愛敬。入社当時の周囲の心配をよそに、会社の戦力となった数年後、なんと大胆にも退社を決意します。
「こんな安定した会社を辞めるなんて、どうかしていると言われました(笑)。でも、学生時代、半年間、シアトルに留学したのが忘れられなくて。もう少し勉強したくて、会社で貯めたお金でカナダのバンクーバーに留学したんです」
カナダでは英語の勉強に加え、サーフィンと共に大好きだというスノーボード三昧の日々を送っていたそう。サーフィンとスノーボードといえば、なんだかおしゃれな感じですが、
「今に思うと、アパレルとかファッションとか好きみたいです。このエプロンも店の看板も、実は私が描いて、母が縫っているんですよ」
と言って見せてくれたのが、どこか酒屋の主を思わせる、おしゃれなエプロン。芳野屋糸店の〈芳〉は、ご自身がデザインしたもの。
そして驚きなのが、この伝統を感じさせる垂れ幕。なんと、鈴置さんの手描きなのです。藍染めに見える生地はデニムだそうで、重しのデニムカバーも心憎いアイディア。
垂れ幕を掛けるフックは、幼なじみの職人さんがささっと付けてくれたそうで、下町の温かな人のつながりを感じさせます。そんな芳野屋糸店ですが、実はお店を継ぐつもりは、まったくなかったのだそう。
「サーフィンとスノーボードもそうですが、動機の9割ぐらいはモテたいということだったと思うんですよ。それでいうと、糸店の仕事ってモテ要素がないじゃないですか(笑)。ただ、カナダから帰ってきた後は、しばらく仕事をしていなかったので(笑)。母親が24時間、お店に縛られているのを見て、それなら少し手伝えば、ちょっとはお店から離れられるよなと。それがきっかけで、なんとなく始めたんです」
なんと親孝行な…。
「いやいや…それまで本当に好き放題やらせてもらいましたから(笑)。それに自分、ビジネス編み物です(笑)。編み物するのは、店の中だけと決めています。というのも、いつも店で立ったまま編んでいるので、家に帰って座って編もうとすると、どうも落ち着かないんですよ」
店内には「シルバー編機指定教室」や「ストッキング修理」など、老舗ならではのお値打ちものの看板がいっぱい。クラフト好きをワクワクさせる骨董品が次々に出てきます。
「糸店ってぬか漬けだと思うんです。3代目、4代目がやってきたものがあるから、なんとかやっていくことができる。5代目の私が少しずつ付け足しながら、いい味を出していけたら。ネットで糸が買える時代ですが、質感や色、やっぱり実物に触れて買いたい人は多いと思うんです。ここに来れば、すべて揃うという強みを大切に、商店街の糸店に来たから味わえる何かを持ち帰っていただけたらうれしいですね」
糸店といっても、ファスナーにボタン、着物縫製に至るまで、小さな店内にあらゆるものがぎっしり。ネットの時代だからこそ、こうした対面の個人店がより貴重に魅力的に思えます。
プロフィール
鈴置克明:すずおきかつあき
東京・森下にある「芳野屋糸店」5代目店主。建設会社勤務、留学を経て明治29年創業の家業の糸店を継ぐ。編み物は「仕事」と割り切り、かぎ針編み、棒針編み、アフガン編みを習得。接客の合間を縫って手を動かしている。店頭用のバッグ、小物を主に制作。リアルでの接客を大切にしており、あえてオンラインショップでの販売をしないのがポリシー。左利き、手はきつめ。
芳野屋糸店
東京都江東区高橋9-7
10~18時 木曜定休 TEL 03-3631-2565
Instagram @yoshinoyaito
photograph Bunsaku Nakagawa