毛糸だま2019年夏号より
<本記事に記載されている情報は2019年5月当時のものです>
今号の特集はウェディングですが、結婚式ではない場面で印象的なウェディングドレスが登場する映画をご存じですか? タイトルは『ファントム・スレッド』。昨年のアカデミー賞で衣裳デザイン賞を受賞した作品です。
舞台は1950年代のロンドン。社交界で名を馳せた初老の仕立屋のお話なのですが、それだけに、溜め息の出るようなドレスと美しい仕立てのシーンが出てくるのです。例えば、主人公レイノルズが、愛する女性アルマのために仕立てたドレスには「1600年代終わりのフランドル地方のボビンレース」が使用され、アップで映し出されたレースの美しさにうっとり。レイノルズは、こう言います。「貴重なレースなんだ。いつか使う日のために、このレースを大切にとっておいた」。彼のドレスには、胸元の裏地にその人への祈りのメッセージが織り込まれています。魂のこもった手仕事が、身にまとう女性たちに誇りをもたらすのです。
そんな天才的な仕立屋の私生活は、繊細な糸を紡ぐように完璧。姉と二人、レイノルズは日々のルーティンをかたくなに守り続けてきました。ところが、人生とは面白いもの。彼はレストランで働く若い女性アルマと恋におちてしまいます。彼と出会い、嫌いだった自分がよいものに思えていくアルマ。一方、彼女に惹かれながらも、アルマの入ってきた暮らしの不調和に日に日に耐えられなくなっていくレイノルズ。それを知ったアルマは、思いも寄らない行動に出るのですが。
監督のポール・トーマス・アンダーソンは不器用な男性視点のラブストーリーを描くのが巧い監督。この映画にも、男の人が根源的に女の人に抱く畏怖の念のようなものがナイーブに描かれ、女性の揺るぎなさを体現するアルマの存在が圧倒的です。「お母さん」という生き物には、大事な存在のためなら、躊躇なく空気を壊せる逞しさがありますが、若くあどけないアルマの笑顔の下に、女の人のそういう強さが透けて見える。繊細なる男子の城に、躊躇なく分け入っていく母性のただならなさが全開で、女性が見ると、女心が理解できるだけに、ちょっと笑ってしまうところと、さすがにコワイなと思うところがあって、コメディにもホラーにも、しかしながら、うっとりするロマンスにも見えてくるから不思議。愛の美しい面を描いた映画は数あれど、この映画が描くのは哀しくて幸せという二人にしかわからない世界。陶酔するような音楽と映像美の中で描かれます。
そんなレイノルズの心の中心を象徴的に物語るのが、16歳の時に大切な人のために作ったアンティークのウェディングドレス。その圧倒的な存在感が、アルマの存在感にスライドして見えてくるよう。互いの心の深いところ、美しくない弱い感情まですべてを呑み込んで愛し合う二人。アルマのありえない行動を赦すレイノルズの深いまなざしが、もう演技を超えていて観る人の心を震わせます。ちょっと谷崎潤一郞的ともいえるこの二人の関係、あなたはどう思いますか?