毛糸だま 2019年夏号より
<記事中に出てくる情報は本誌掲載当時のものです。>
パラグアイ共和国は南米大陸の内陸国で、ブラジルとアルゼンチンの間にあります。日本よりも少し広い国土に700万人が住み、牛の方が人よりはるかに多い農業や牧畜が盛んな国です。南米の他の国と同じく、様々な国からの移民で成り立っています。1936年から多くの日本人が移住し、苦労しながらもパラグアイの発展に大きく貢献してきました。そのため、パラグアイは大の親日国だと言われています。
ニャンドゥティとの出会い
私は、ラ・コルメナという日本人が最初に入植した町で生まれました。実家はブドウなどの果物や野菜を栽培し、そして牛やミツバチを飼う農家です。日本語や日本の文化を大切にする両親と、勉強や仕事仲間のパラグアイ人に囲まれて、自然豊かな環境で育ちました。
学校を卒業してからは、看護師・助産師として別の日本人移住地で働いていました。開拓中の不便な時代でしたが、みんなで助け合いながらの生活はとても楽しい思い出でいっぱいです。パラグアイは比較的治安も良く、人々はよく笑い、親しみ深く、通りかかると手招きしてマテ茶を差し出してくれるような大らかさにあふれています。
パラグアイの生活は、一言で言えば "ナチュラル"。亜熱帯なので年間を通して温暖で、マンゴー、パパイア、パイナップル、グレープフルーツ、グアバ、アセロラなどあらゆるフルーツがたくさん実り、チーズなどの乳製品も田舎では自家製です。キャッサバやトウモロコシやポロト豆などで作るパラグアイ料理は、素朴ですがとても味わい深いです。実家にはパパイアを食べに今でもオオハシドリがやってきますし、森の木の実にモルフォ蝶が群れています。森の豊かな自然とともに日常があるのが、大らかに暮らせる理由かもしれません。
私のニャンドゥティとの最初の出会いは、首都アスンシオンの大叔父の家にあった見事なニャンドゥティです。幼い私は、こんな綺麗なものをどうやって作るのだろうと思いました。農村で暮らす私にとって、ニャンドゥティは高価で、決して身近なものではありませんでした。その後アスンシオンに暮らすようになり、ニャンドゥティの手ほどきを受けました。代表的な産地のイタグアを始め、各地の職人たちと深く交流するようになり、ニャンドゥティ、エンカへジュ(レース編み)、アオポイ(刺繍)などの伝統工芸品のとりこになっていきました。
ニャンドゥティの歴史、製作方法
ニャンドゥティがどのように生まれたのかは明確ではありませんが、技法がカナリア諸島のテネリーフ刺繍に似ていることから、スペイン人によってもたらされたと考えられています。16世紀にイエズス会の宣教師が先住民の教化村を各地に設立したことが、ヨーロッパの文化と土着の先住民文化の融合を促したと言われますが、その後長い年月を経て、パラグアイの自然、風土、暮らしの影響を受けながら、ニャンドゥティが生まれました。
19世紀の三国同盟戦争の後、女性の手仕事として発達したようで、20世紀に入ってからは色糸を用いた現在の華やかなニャンドゥティが作られるようになりました。ニャンドゥティとは先住民族のグアラニー語で「蜘蛛の巣」という意味です。森の中の蜘蛛の巣をヒントに恋人への贈り物として作ったという伝説がいくつも残っています。
実際にパラグアイには集団で10メートル以上の大きな巣を張る蜘蛛がいます。その蜘蛛の巣はまさに大きなニャンドゥティのようです。職人たちは、マルチカラーの華やかなニャンドゥティの色彩は蜘蛛の巣に反射した太陽の光の輝きから生まれたものだと言います。また、昔は、実際に蜘蛛の巣の糸からニャンドゥティや靴下を作っていたそうです。
ニャンドゥティには350種類以上の伝統的なモチーフがあり、すべてのモチーフに意味があります。ジャスミンの花やバナナの葉、牛の足跡やダニ、昆虫などの動植物系、かまどや糸通しといった生活用具、でべそや眉などの身体の一部を表現したものなど、いずれもパラグアイの豊かな自然や大らかな生活に密着したユニークで楽しい図柄です。
モチーフは母親から娘に伝えられながら、各家庭で発達しました。モチーフ単体でピアスなどの装飾品にしたり、複数のモチーフを使ってドイリーやテーブルセンターにします。また、民族舞踊やアルパ奏者のドレス、ハレの舞台での衣装にニャンドゥティは不可欠です。最近は、モダンなドレスのブランド品も出てきています。
ニャンドゥティには、結びかがりと編み込みの2つの技法しかありません。木枠に張った布に、放射線状に糸を渡し、この2つの技法のくり返しでよこ糸を編み込んでいきます。モチーフを編み終わったら、モチーフの裏側の布を切り抜き、木枠に布を張ったまま糊付けし天日で乾かします。
乾いた後にモチーフのまわりの布を切り、木枠から外して完成です。ニャンドゥティは、基本の技術のシンプルさが、作者のオリジナリティーを無限に引き出します。
ニャンドゥティの産地と職人たち
ニャンドゥティの産地は、アスンシオンから東へ30㎞程のイタグアやピラジュという町が有名です。イタグアでは国道沿いに多数のお店がニャンドゥティを店先に広げています。
路地に入ると中庭で職人たちが木枠を膝にのせてニャンドゥティを製作しているところに出会うことができます。晴れた日の午後は、庭の木陰やテラスに職人たちが集まり、楽しくおしゃべりしながら作業します。足元でニワトリが走り回り、頭上にはマンゴーが風に揺れるような製作環境です。ベースのモチーフを作る人、できた作品をつなげてドレスなど大物に仕立てる人、糊付けし仕上げをする人など、さまざまな職人が分業しています。
私が主宰する教室(Academia Mie Elena)のニャンドゥティツアーでは、職人さんたちと共に木陰でのワイワイがやがやのワークショップを体験してもらい、ニャンドゥティの豊かな発想そのものを感じてもらいたいと思っています。
私はニャンドゥティの手ほどきはアスンシオンの日系人の田口さんから受け、その後、国立伝統工芸院(IPA : Instituto Paraguayo de Artesania)やイタグアの職人達との交流から技術を学びました。高い芸術性で有名なチキータ先生とシンドゥルファさんとの出会いは特別なものです。
チキータ先生は多様なモチーフを駆使した繊細でオリジナリティーあふれる作品を作ることで有名です。
シンドゥルファさんは目の覚めるような大胆な色彩と精緻なデザインで、これぞニャンドゥティの神髄だという作風です。
現在の問題と将来の可能性
2011年に日本に帰国し、ニャンドゥティがアルゼンチンのものと紹介されていたのがショックでした。私たちパラグアイ人にとってニャンドゥティは心のシンボルのようなものです。これではいけないと考え、ニャンドゥティを日本で知ってもらうように活動を始めました。
2011年、デパートやホビーショーでの製作実演と作品の展示販売をし、同時にニャンドゥティ教室を始めました。また、主人とともに始めたパラグアイフェスティバル(毎年10月、都立光が丘公園で開催)の民芸品ブースでも販売とワークショップを始めました。
「こんな色使いのレースは見たことがない」「とても癒される」「これは刺繍なのですか」「南米のレースって珍しい」など、様々な反応をいただきました。
ニャンドゥティの教材がパラグアイにも日本にもないことに気づき、2015年に書籍『パラグアイに伝わる虹色のレースニャンドゥティ』を出版しました。生徒や愛好者は一気に増えた感じがします。珍しさだけではなく、華やかさの中に繊細さと無限の表現性を秘めたニャンドゥティは、日本人の感受性に訴えるものがあるのでしょう。昨年出版した、二冊めの書籍『ニャンドゥティのアクセサリー』も多くの反響をいただきました。
ただ、パラグアイでは職人の高齢化と後継者不足が顕著になってきています。伝統工芸の世界ではどこも共通の悩みでもあります。また、取引価格の基準が必ずしも作成にかかる手間を反映していないことも問題でしょう。パラグアイのニャンドゥティが世界中に知られ、愛好者が増え、正当に評価されることが、生産地の活性化につながるはずだと考えています。
私は国立伝統工芸院(IPA)のニャンドゥティ指導員に認定されており、イタグア市からはニャンドゥティ文化振興プロモーターを任命されています。伝統を踏まえた正当な技術を伝えながらニャンドゥティを世界に広めることが私のミッションです。その上で日本を始め、パラグアイ以外の国でニャンドゥティの流通が大きくなり、ひいてはパラグアイのニャンドゥティ文化が力強く発展していくことに微力ながらも貢献していきたいと思っています。
現在は、ニャンドゥティ教室を通じた普及とイタグアのニャンドゥティ学校への支援、パラグアイと日本の生産者の交流を手掛けています。将来は、パラグアイの各地でも生産者が増えるお手伝いをしたいと考えています。
パラグアイにはニャンドゥティだけでなく、ほかにも素晴らしい伝統手工芸品があります。ニャンドゥティよりは粗く張った木綿の糸に編み込んで作られるエンカヘジュと呼ばれるレース、独特の文様やデザインをあしらうアオポイという刺繍、手工芸の盛んな町ではジャタイトゥという昔ながらの機織りで木綿の生地を織る老職人もがんばっています。
機織りの職人は自家栽培の綿花から糸を紡ぎ、機織り機で布を作り出します。ニャンドゥティだけでなく、このような貴重な文化遺産を伝えることも重要だと思っています。どこかしらのどかで、ナチュラルで懐かしい、パラグアイという国ならではの豊かな伝統文化の世界を紹介することも、私の使命かもしれません。
取材・文・現地写真/岩谷みえエレナ 写真/森谷則秋 編集協力/春日一枝