世界手芸紀行

【ボビンレース】フランス共和国 巡礼の地、ル・ピュイ・アン・ブレーに伝わるボビンレース

公開日 2023.05.07 更新日 2023.08.10
ライター=石澤季里

コラム
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石澤季里
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毛糸だま 2021年夏号より

<記事中に出てくる情報は本誌掲載当時のものです。>


16世紀後半のフランスでは、パリッと糊づけされたヴェニス産のレースの衿は、神の後光のようだと高貴な身分の男女に偏愛されるアイテムでした。17世紀初め、三十年戦争によって国庫が逼迫すると、フランス王室は国費が海外に流れないように、レースを含む贅沢品の輸入禁止令を発します。しかしファッションに強いこだわりのあるフランス人にとって、この政策はレースの闇取引を増加させる最悪の結果をもたらすことになりました。


見かねた太陽王ルイ14世は、財務大臣コルベールとともにフランス産の手工芸品の斡旋に努めます。そのひとつがイタリアから腕利きのレース職人たちを招聘し、産業のない地方の村々にレース工房を設立することでした。これが後にヨーロッパの王侯貴族を熱狂させる、フランス西部のアランソンのニードルレース誕生のきっかけです。


画像5軽やかで女性的なものが好まれた18世紀のロココ時代の淑女の肖像画。高価なレース飾りをふんだんに身に着けるのが王侯貴族のステイタスでした


王侯貴族に愛されたル・ピュイ・アン・ブレーのボビンレース


一方、中央フランスに位置するオーヴェルニュ地方のル・ピュイ・アン・ブレーのボビンレースは、アランソンのニードルレースよりも古くから知られていました。この村はスペインのサン・ジャック・ド・コンポステルへの巡礼の出発点であり、宗教祭のたびに聖職者や敬虔なカトリック教徒が集まる村でした。


12世紀には小物商人組合が設立され、巡礼者が土産品として持ち帰ることのできる金の十字架や、お守り代わりの宝飾品、シルクのダマスク織などの生地、金糸銀糸のガロン(ブレード)やパスマントリーを中央市場で販売していたのです。なかでも、ベールや法衣の裾飾りとして用いられるボビン・レースは美しいものが揃っていると評判でした。このボビンレースは、刺繍上手の若くて美しい娘、イザベル・マムールによって生み出されました。


画像6ル・ピュイ・アン・ブレーの典型的なテクニック「ポワン・デスプリ」のほか、10種類近いテクニックを用いて作られた19世紀の金糸のベール。箱の中身は、今では手に入らない上質なレース用の麻糸


現在、ユネスコの世界遺産に登録されている大聖堂の聖母マリア像。1407年、このマリア像のドレスを作り変えるという大役を仰せつかった彼女は、期限が迫ってもドレスを刺繍で覆い尽くすことができずにいました。たまりかねた彼女が試みたのは、板の切れ端にリネンの糸を留め、それを交差させながらネットを編むことでした。


そうしてできた美しいネットは、この地の言葉で「プンタ」と呼ばれ、お洒落なファッションアイテムとして珍重されるようになったのです。これがこの地に伝わるル・ピュイ・アン・ブレーのボビンレースの発祥と言い伝えられています。


画像7火山の噴火によって作られた奇岩がそびえるル・ピュイ・アン・ブレー。頂上には 16 メートルの聖母マリア像と礼拝堂があり、敬虔な村の歴史を物語っています


イタリア・ルネサンスの文化に傾倒し、高価なレースやパスマントリーを輸入し、身に着けるのが趣味だったフランソワ1世。イタリアからレオナルド・ダヴィンチやヴェンベニュート・チェッリーニといった才能あるルネサンスの芸術家を招聘し、友人から愛人まで、美しい女性を大勢まわりに置いたことでも知られる伊達男でした。そんな王が身に着ける品々は、宮廷人の間で次々に大ヒットしました。王は1531年から1534年にかけて宮廷のあったロワール地方からフランス中の都市を訪問して廻りました。


王はその際、聖地ル・ピュイ・アン・ブレーにも訪れ、この地の小物商人組合が扱っていた上質なファッション・アイテムを手に入れます。こうして王が身に着けた「ル・ピュイのプンタ」は、それまでのレースとは一味違う個性的なレースとして、カトリックの聖職者や王侯貴族たちに広まり愛されるようになったのです。


1639年にルイ13世によって高価なファッション・アイテムの輸入や着用が禁止されても、教会の内装を飾ることと聖職者の法衣だけは例外的に許されていました。そのため、教会関係者のために設立されたル・ピュイ・アン・ブレーの小物商人組合は依然、製作を続行することができました。そうして、サヴォア公国や現在のスイス、ドイツ、オランダ、ボルドーやスペインの港を経由してマルタ島や南アメリカにまで輸出され、大評判を博したのです。


画像8連続柄「ギピュール」や縁飾り「クリュニー」で天使や教会のバラ窓を表現した傑作は、教会の祭壇飾り(IRIDAT所蔵)


もうひとつ、ル・ピュイ・アン・ブレーで品質の高いボビンレースが作られ続けた理由に、近年まで続いていた「ベアット」というシステムが挙げられます。1665年、王に仕える検事の娘だったアンヌ・マリー・マルテルは、産業のないオーヴェルニュ地方の村の少女や女性たちが、生活の糧を得られるようにと「ベアット」を設立しました。


「ベアット」はラテン語で「教養のある女性」という意味です。彼女は神学校のトンソン牧師に相談しながら、村の集会所で読み書きや計算、それからキリスト教の教理をわかりやすく教えました。農閑期には祈りを捧げ、賛美歌を歌いながらボビンレースを編みました。


画像919世紀のボビンレースの下絵。この下絵に針を刺すピコワールという作業がボビンレース作りのファーストステップ


このシステムのおかげで、17世紀末には村の女性全員が高度なボビンレースのテクニックを習得していきました。1881年にフランスの初等教育の義務化が始まってもル・ピュイ・アン・ブレーでは777人が「ベアット」に登録し、1990年でも、なお 2〜3人が登録していました。


画像1020世紀初めまで、ル・ピュイ・アン・ブレーには、このような半円筒形のクッションを膝に置き、500本ものボビンを器用に用いた職人が大勢いました


人気の凋落、そして復活


栄華を極めたル・ピュイ・アン・ブレーのレースですが、18世紀後半、王妃マリー・アントワネットに愛されたパリ近郊のシャンティーのブロンド色のシルクのボビンレースの人気によって忘れ去られていきます。


しかし、フランス革命から40年後、パリの若きレースデザイナー、テオドール・ファルコンによってその魅力が再発見されました。彼は新たなモデルを考えるにあたって、パリの美術館や図書館に所蔵されているアンティークレースをインスピレーションソースとしました。その際に、とりわけ複雑で繊細なモチーフだと感動したのがル・ピュイ・アン・ブレーを始めとするオート・ロワール県のボビンレースだったのです。そこには、フランスはもとより、ベルギーのブルージュやブリュッセルの信者が持ち込んだ海外の高級レースのテクニックや素材が凝縮されていました。


画像11レース産業に貢献した人々に敬意を表して作られたこの地の名士のステンドグラス(クロザティエ美術館所蔵)


1838年、彼はル・ピュイ・アン・ブレーの1400人のレース職人を集めてレース編みの訓練学校を設立しました。折しも時は万博時代の幕開けでした。試行錯誤をくり返すこと30年。ル・ピュイ・アン・ブレーのボビンレースは、1867年のパリ万博で「アランソンを越えるフランスで最も素晴らしいレース」と話題を呼び、12万人ものレース職人が働く一大産業に上りつめました。


1962年までフランスの植民地だったアルジェリアのテクニックを取り入れた銀糸金糸のメタルレース。ウールや馬のたてがみ、藁といった変わり素材。20世紀のアール・デコ時代に一世を風靡した機械編みのカラーレースもこの地で生み出されたものです。しかしながら、次第にレースや道具を買う女性はいなくなり、1970年の不景気に伴い、3人の年老いた職人が太い麻糸で無骨で何の変哲もないボビンレースを編むだけとなりました。


そんなボビンレースの壊滅的な状況を受け、ル・ピュイ・アン・ブレーには同年、伝統的ボビンレースの調査と革新、発展を目的にした「ル・ピュイ・ボビンレース教育センター」(IRIDAT)が設立されました。


画像1ギピュールレースを模した外観が目印のIRIDAT。ここでは教本や材料を購入できるほか、定期的にレッスンが開催されています
画像2オート・ロワール県のボビンレースの逸品に触れることのできるクロザティエ美術館


ここでは、20世紀初めに制作された教本の再出版や、年に4回19か国向けに雑誌「レース」の発刊を行い、ル・ピュイ・アン・ブレーのボビンレースの伝承に努めています。また、子どもから大人まで幅広くレッスンも行っています。現在、この地のボビンレースには、シリアル番号と「ル・ピュイ・レース」の商標をつけ、他との差別化を図っています。


画像12今も軒先でボビンレースを編んでいる職人がいます


新しい時代のボビンレース


それまで国の援助を必要としてこなかったル・ピュイ・アン・ブレーのレース産業ですが、1976年、ジスカール・デスタン大統領のもと、初めて国が立ち上がりました。そうして誕生したのが、フランス文部省管轄下の「ル・ピュイ・アン・ブレー国立ボビンレース工房」です。


画像13ル・ピュイ・アン・ブレー国立ボビンレース工房では、伝統的なテクニックを用いながら斬新な作品を作りあげることに余念がありません


現在、工房にはボビンレースを作るスペシャリストが8名働いています。彼女たちは皆、国家公務員資格を持っていて、オート・ロワール県に伝わる300種以上のテクニックを科学的に分析・調査し、型紙を起こして試作し、そのテクニックを保存、継承するといというミッションを抱えています。


画像14コンテンポラリー作品は、30~50回、不規則に糸を交差させながら編むので、伝統的な作品以上に神経を使います


彼女たちは、国のコンぺで最優秀賞に輝いた芸術家とコラボし、コンテンポラリーなボビンレース作品を制作しています。作品は大統領官邸エリゼ宮や迎賓館マティニョンや大使館の室内を飾り、内外の政府関係者や大使の目に触れることになります。また、シャネルやカルティエといったフランスの歴史的なオートクチュールメゾンや宝飾品ブランド、海外の王室や政府からの注文にも応えてレースを制作することもあります。


なかでも重要なのが、17世紀以降、王立・国立工房が作ってきた国の重要文化財、ヴェルサイユ宮殿やフォンテヌブロー宮殿、また、皇帝ナポレオンのマルメゾン城などを飾った調度品の修復です。


画像15希少性の高い純銀の糸を巻いたボビン


取材当日はレース職人のナタリーさんが、エリゼ宮のサロン・ダルジャンの改装に向けて、525個もの銀糸の花を編んでいるところでした。この部屋は、ナポレオンがセントヘレナ島へと島流しになる契約書にサインしたことで有名です。工房では、国立家具調度品工房の布装飾部門と相談し、もとは刺繍だった新古典主義スタイルのカーテンの縁取りを、ボビンレースで飾ることになり、385cm×290cmのカーテンを4枚作ることになったのです。


「今は、メカニックでボビンに糸が巻けるようになったから楽」とナタリーさんは言うものの、その数は1400本。予定される作業は2100時間にもなるという、実に膨大な作業です。


画像3エリゼ宮のサロン・ダルジャンの改装に向けて、カーテンの縁飾りを制作しているレース職人のナタリーさん。半円筒形のクッションの代わりに、現在はボビンの滑りを良くするために「タイル」と呼ばれる何枚もの正方形の革敷を移動させながら編み進めます
画像4「P」は 政府のお墨付きである工房のロゴマーク


また別のレース職人のフランソワさんは、近代アーティスト、F. G. ラランヌの傑作「雲」をボビンレースで表現する作業に挑戦中でした。編み方にアクセントをつけながら立体的に、軽やかに仕上げるのが腕の見せどころと語ります。国の無形文化財である手工芸を守り抜くためには、国の支援と緻密な作業を根気よく続ける職人の心意気、その両方が不可欠なのです。


画像16工房長のイザベルさん(右)と職人フランソワさん(左)


取材・文・写真/石澤季里 編集協力/春日一枝



ル・ピュイ・ボビンレース教育センター(IRIDAT)

https://www.ladentelledupuy.com/


ル・ピュイ・アン・ブレー国立ボビンレース工房のアトリエは一般公開もしています。要予約 tel.+334-7109-7441


クロザティエ美術館

https://www.musee.patrimoine.lepuyenvelay.fr/

石澤季里
ライタープロフィール / 石澤季里
工芸ジャーナリスト。フランス・アンティーク研究家。カルチャーサロン「プティ・セナクル」代表。著書に『フランス手仕事、名品物語~マリー・アントワネットが愛した職人技』(大修館書店)等。
https://www.antiqueeducation.com/
石澤季里
ライタープロフィール / 石澤季里
工芸ジャーナリスト。フランス・アンティーク研究家。カルチャーサロン「プティ・セナクル」代表。著書に『フランス手仕事、名品物語~マリー・アントワネットが愛した職人技』(大修館書店)等。
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