毛糸だま 2021年秋号より
<記事中に出てくる情報は本誌掲載当時のものです。>
ポーランドの首都ワルシャワから西に75kmほど行ったところにある、人口3万人ほどの小さな街ウォヴィチは、今もポーランドフォークロアの中心地です。ポーランドを訪れたことがある人なら、ウォヴィチの伝統的な切り絵模様や薔薇のサテン刺繍がプリントされた土産品、袖のリシュリュー(カットワーク)刺繍が美しいブラウスに、スカート部分がウールの縞模様で身頃と裾に花模様の刺繍がたっぷりと施された民族衣装を見たことがあるかもしれません。
ウォヴィチは首都ワルシャワからも近く、歴史的にはポーランド王国およびリトアニア大公国の副都だったこともある土地で、いつの時代も比較的裕福な農村地帯でした。そんなウォヴィチの民族衣装の変遷には、ポーランドの歴史や社会背景を垣間見ることができます。
ウォヴィチ独自の刺繍が誕生するまで
19世紀初頭までの民族衣装は大変シンプルで、「ポーランド刺繍」と呼ばれる、ストレートステッチや、チェーンステッチを組み合わせた幾何学模様の簡単な刺繍をあしらったものが中心でした。
1880年頃にはポーランドを分割統治していたロシアの影響で「ロシア刺繍」と呼ばれるクロスステッチのブラウスや、男性のネクタイが作られます。クロスステッチは手織りの麻布の細かい目に沿って刺繍され、当時の女性たちのとても繊細な技術をうかがい知ることができます。
20世紀に入ると、ウォヴィチ独自のフォークロア文化が花開きます。ふたつの世界大戦のはざま、染色剤や塗料、色糸やビーズ、色紙などの物資が農村でも手に入るようになります。ここからウォヴィチの人たちの想像の翼が広がっていき、ウォヴィチオリジナルのデザインが生まれるようになったのです。「ロシア刺繍」と呼ばれたクロスステッチに代わり、色とりどりの糸を使った華やかなサテン刺繍が流行るようになります。
パンジーやスズラン、ライラックやブドウの蔓などの身近な植物が好んで刺繍されました。新しく手に入るようになったベルベットの生地は、これまでの手織りのウールの生地よりも刺繍が施しやすく、ベストやウールのスカートの裾にも使われるようになりました。民族衣装のバリエーションも増え、男性のベルトや帽子、ネクタイ、ベストの前身頃、女性のスカートやエプロン、ブラウスなど様々なものに刺繍が施されます。糸もウールや綿、シルクなど様々な糸が用途に合わせて使われました。ビーズ刺繍もこの頃から作られるようになります。華やかに見えるビーズ刺繍は、当時の人々に大変好まれました。
1930年代にドイツからシンガーミシンが輸入されるようになると、ウォヴィチの刺繍もミシン刺繍が主流になってきます。当時のシンガーミシンは、高級車が一台買えるくらいの値段だったそうですが、ウォヴィチではいち早くミシンを取り入れる家庭が多かったようです。流行りに敏感で、かつ裕福な農村だったからこそ可能だったのでしょう。
ウォヴィチのフォークロアで、大変興味深いのは教会の役割です。ウォヴィチには183の教会があり、教区(教会の行政単位)は162に分かれていました。教会は人々が定期的に集まり、キリスト教の教えを学び社会性を養う場所であるとともに、刺繍やデザインの流行りを女性たちが確認し合う場所でもありました。
1930年代以降の刺繍には、教区ごとの違いが表れています。流行りの花や色合い、スカートの縞模様の配色、ベルトの幅やビーズ刺繍の刺し方などに細かい違いを見ることができます。当時の民族衣装は、どの土地(教区)の出身か、独身者なのか既婚者なのか、裕福な家庭出身なのか、などを示す名刺代わりでもあったのです。
21世紀となった現代では、グローバル化で文化やデザインに国の違いや大きな差が見られなくなっています。一方、ほんの100年前は、一国の中に、様々な文化が混在し、さらに教区という小さな単位ごとに明確な文化の違いがあったのですから、とても興味深いです。当時の人々は大変な働き者で、神の教えに忠実で、自然から学び、個人の感性を大切にし、人間の持つ創造力を存分に発揮しながら生きていたのではないでしょうか。
そんなウォヴィチの伝統文化を祖母、母から現代に受け継ぐ姉妹、テレサ・コツスさん(姉)とアンナ・スタニシェフスカさん(妹)に会いに行きました。
伝統刺繍を受け継ぐ姉妹を訪ねて
テレサ・コツスさんとアンナ・スタニシェフスカさん姉妹は、ポーランドの伝統工芸家協会に所属し、ウォヴィチの伝統刺繍家として活動しています。二人ともフォークダンスや、民謡を歌うグループにも属しており、刺繍だけでなく、切り絵や伝統的な花飾りも作ります。
近年では、ヨーロッパ各地の姉妹都市や、トルコ、中国、日本など、ウォヴィチ市や国を代表して国内外でポーランドの伝統工芸を紹介、広める活動をしています。アンナさん、テレサさんともに、ポーランドの民族舞踏団の民族衣装などを作っています。最近は、伝統的なものだけではなく、日本の日常着として着ることができるデザインの刺繍の洋服なども仕立ててくれています。
「ウォヴィチの伝統文化は私たちの情熱であり、趣味であり、仕事であり、人生です」と語る二人のルーツを伺いました。
テレサさん、アンナさんの母や祖母もまた、職業として民族衣装を仕立てる職人でした。
「母の時代は、自分の畑で採れた麻で麻布を織るところから始めなければいけませんでした。実家の両親は専業農家で、昼間は畑仕事をして、母は夜に家族の民族衣装や注文の衣装を仕立てていました。父はとても理解がある人で母が仕事をしやすいように手伝っていたのを覚えています。母や祖母は民族衣装を着て生活していました。母は、自分の教区の中では、デザイナー的な役割をしていました。当時の刺繍や仕立ての流行を作っていたんですよ。今のウォヴィチの刺繍はグラデーションを施した大きな薔薇が主流ですが、祖母や母の時代は、身のまわりの野の花が好んで刺繍されました。小さく丸みを帯びたパンジーや、可憐なスズラン。今でも祖母や母が使っていた下絵を使って刺繍することがあります。当時の女性たちは、大変な働き者で美術的なセンスに長けていたと言えますね。民族衣装とはいえ、思い思いのアイデアで刺繍を施していたのです。暮らしのそばにある自然や花々が常にインスピレーションの根源でした。私たちもそんな母の姿を見て育ちましたから、生まれた土地のフォークロアへの興味や尊敬の心は自然に育ちました」
伝統的なウォヴィチの農村で、刺繍家の母のもとで育った、テレサさんとアンナさん。現代に伝統工芸を伝える難しさや面白さも話してくれました。
「今、問題なのは伝統工芸家が高齢になってきていることです。ポーランドの伝統工芸は、農村の生活の中から生まれてきたものが多く、商業的に若者が受け継ぐという土壌が私たちの次の世代になかなかありません。一方で、ウォヴィチの切り絵や刺繍、民族衣装はポーランドのお土産品などにプリントされてたくさん売られていますが、それを実際に作っている人たちは、著作権などで守られてはいません。私たちが作っているものが国のシンボリックなデザインとなっているのはとても嬉しく、誇りに思っています。ただ私たちは、表面的なデザインや価値だけではなく、代々受け継がれてきた伝統的な価値をより広く、若い世代に伝えていけたらと思っています」
現在、ウォヴィチの高校には県庁が支援する伝統工芸コースが設けられています。刺繍コースは、伝統的な5種類の刺繍を教えていて、人気があるそう。近年では特に、ポーランドからEUのほかの国に勉強や働きに出ていた若者たちの間で伝統回帰の流れがあるといいます。
「国外の生活を経験した若者たちは、一度ポーランドを外から見ることで、自分たちが育った土地の文化を大切にしようという気持ちが育つようです。実際にウォヴィチ出身の若者たちの間では、民族衣装を着て結婚式を挙げる人がまた増えてきています」とアンナさん。
「ウォヴィチの伝統文化や民族衣装は私たちのアイデンティティであり、誇りです。手工芸は人の心を落ち着かせる力があると思います。美しいものならなおのこと。工芸家として神様が与えてくれた幸運に感謝しています」という二人の言葉が印象的でした。
ウォヴィチの聖体祭
ポーランドの伝統が今も色濃く残るウォヴィチは、伝統的な行事においても、刺繍がとても重要な役割を果たしています。ウォヴィチの聖体節の行列は特に有名です。
聖体節とは、キリスト教において復活祭(イースター)の60日後の木曜日に行われる聖体(イエス・キリストの体)を崇める祝祭日のこと。ポーランドでは国民の祝日であり、人々は教会のミサに出かけます。ミサの後には、ポーランド各地で聖体行列が行われます。聖人のイコンを配した幟のぼりばた旗を持った人々の行列のあとに、十字架を持った司祭、鼓笛隊、市民が続き、大行列を編成して、教会からの沿道に作られた祭壇をまわり、祈りを捧げます。キリスト教のイベントとしてだけではなく、土着の信仰とも相まって、好天、豊作、無病息災、家内安全などを祈る行事でもあります。
ウォヴィチの聖体行列は、老いも若きも、それこそ歩き始めたばかりの赤ちゃんまでもが、刺繍がふんだんに施された伝統的な民族衣装を身に着け、ウォヴィチの刺繍家たちが何か月もかけて作った聖母やキリスト像、聖人の像などが刺繍された美しい幟旗を掲げて、行列を組みます。民族衣装は、今は貸衣装店もありますが、母が娘のために刺繍し、代々受け継いできたものがほとんどです。
2021年の聖体祭は、新型コロナウィルスの感染が収まりつつあった6月3日に行われました。朝から雲一つない晴天で、感染対策の下、民族衣装をまとったウォヴィチの市民たちと、ポーランド中からの観光客が、ミサが行われたウォヴィチの中央広場を埋め尽くしました。たくさんの報道陣も集まり、この町の様子がポーランド国内外の新聞やテレビニュースで流れました。
ウォヴィチの歴史や風土、そして名もなきたくさんの女性たちの手によって作り上げられてきた、美しい民族衣装や刺繍は、人々の生活を、信仰を、伝統を彩ってきた、誇るべきアイデンティティであり、ウォヴィチの人々にとってはなくてはならない存在なのだと、聖体祭の日にウォヴィチで感じました。
ウォヴィチ博物館
取材・文・写真/藤田泉 編集協力/春日一枝