井上輝美の刺繍放浪記

ラピス・ラズリⅢ【イスラマバード・パキスタン】

公開日 2025.09.02 ライター=井上輝美

コラム
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井上輝美
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ミセス・デイヴィス・ホテル


空港から繁華な街並みをタクシーで走り抜け、豊かな耕作地帯をしばらく行くうちに、大樹に囲まれた気持ちよさそうな緑地が近づいてきた。


あきらかに周りとは異なって、人為的にこぢんまりと整った、エキゾチックな桃源郷の風情である。


森の入り口をくぐり、ふと見ると、子リスたちが大きな尻尾を膨らませ、並木の大樹で木登りをしている。外界とは打って変わった涼やかな森の中。木洩れ日に覆われた小道の先に、木造二階建てのクラッシックなお屋敷がしずしずと姿をあらわした。白壁もマホガニー色の窓や柱も、微風にさざめく光につつまれて淡緑色に染まっている。


昔は馬車も着いたであろう玄関ポーチには、白い上着に黒い蝶ネクタイ姿の華奢なホテルマンが、こちらを見ながら品よく佇んでいた。黒髪を真ん中分けになでつけて、サイドを綺麗に跳ね上げた口髭が古風で珍しく、その人にはよく似合っている。


わたくし達を丁寧に迎えてくれた控えめな物腰は、映画か小説の役柄を演じる人物のようにエレガントだが、その上に、震え声でキングス・イングリッシュを話すとは! でき過ぎである。アガサ・クリスティや、シャーロック・ホームズの時代にワープしたようで、心は密かに小躍りしている。


後で聞いたことだけれど、彼はパキスタンが英領時代にできた、この士官専用の館にて、代々仕事を引き継いで来た一族の末裔だということで、大いに納得。


現地の人ながら、英国式の別天地育ちという訳で、生きる文化遺産のような御仁だったのだ。


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吹き抜けの薄暗いロビーの奥には、アガサの『道化荘』と同じく、白黒チェッカーズの床、天井にプロペラのついた大食堂が、中庭からの光に照らされて、クイン氏の登場を静かに待ち受けている気配。


客室のマホガニー色のドアが、ロビーのバルコニーを几帳面に取囲み、繰り型のある白漆喰の壁と美しいコントラストを見せている。


二階の客室のフランス窓には、広い芝生の中庭に面して瀟洒なテラスがついており、バスルームの猫脚のバスタブとあわせてパーフェクトな舞台装置。アガサ的妄想は益々ふくらむばかり。大食堂の窓辺でアフタヌーンティーを愉しんでいると、クイン氏の幻の声が聴こえてくるようである。


夜半には、無音の稲妻が別棟の建物を漆黒の闇に浮き立たせ、雷鳴を伴う亜熱帯の嵐が屋敷を急襲する。


椰子の大木が頭を振って踊り狂い、はげしく揺れる葉影はストロボ照明で中庭中を駆け回っている。


ガラス窓に鼻の頭をくっつけて、特撮のような光景に我を忘れて見とれるばかり。


冒険第一夜は華々しく、かくの如し。


友人は久々の快適なホテルで嵐も知らず、泥のように深く深く眠っていたということだ。


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井上輝美
ライタープロフィール / 井上輝美
手芸、お料理本のスタイリスト。『毛糸だま』誌も担当中。趣味は、旅、音楽、手仕事。
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手芸、お料理本のスタイリスト。『毛糸だま』誌も担当中。趣味は、旅、音楽、手仕事。
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