毛糸だま2022年春号より
<本記事に記載されている情報は2022年2月当時のものです>
春の訪れと共に公開される『ゴヤの名画と優しい泥棒』の原題は"THE DUKE"。「件の公爵」ということですが、これ、ある時代の人たちにはよく知られた絵画のことなのです。というのも、ウェリントン公爵という人物を描いたこちらの作品、なんと1961年にナショナル・ギャラリーから盗まれているのです。それも強盗団でも何でもない、市井のひとりの男の手で――。
その驚くべき実話を映画に膨らませたのは『ノッティング・ヒルの恋人』のロジャー・ミッシェル監督。この映画はリチャード・カーティスの脚本とのコンビが素晴らしかったですが、今回の脚本家二人も素敵で、やはり、ミッシェル監督の作品だなと思わせる魅力があります。貧富の差だとか、様々な人種の共存だとか、今後、日本が考えるべき問題の、いわば先輩にあたるイギリス社会ですが、そのギャップを包む込むようなウィットに富んだ会話がふんだんに散りばめられ、マイノリティの人たちに向けた温かなまなざしが細かなところにも感じられる。『ノッティング・ヒル~』が素敵だったのは、単なるラブストーリーを超えたところの、そうした会話の妙や心ある人間味の豊かさだったように思うのですが、『ゴヤの名画~』にも、そんな監督の持ち味が生きています。
それを体現するのが、ジム・ブロードベント、ヘレン・ミレンという名優たち。二人が演じるケンプトン&ドロシー夫妻は、普段の会話からユーモアに満ちていて、「うまいこと言う」のですが、名画を盗んだ罪で法廷に立ったケンプトンの裁判シーンといったら。気の利いた切り返しが次々に繰り出され、人々の笑いを誘う。こんな楽しげな裁判シーンも珍しい。表情といい、物言いといい、ブロートベントの軽みが楽しめます。
そして、事件を起こす夫の横で、真の主役はこの人では……と思わせる存在がドロシー役のヘレン・ミレン。彼女自身はデイムの称号を持つ大女優ですが、昔風メガネの庶民の奥様がなんともリアルで奥深い魅力を感じさせる。この地域・この世代の妻たちの風情を漂わせ、さらには口にしない思いを滲ませているところがさすがで、ひとり政治活動をしながら世の中にもの申す夫にやきもきしつつも、適度にいなす様子はベテランの貫禄。そんな彼女が夫に思い余った時、手にするのが編み針と毛糸。当時の女性たちがそうしていたように、彼女はいつも夕食後に編み物をしている。夫妻には悲しい過去があるのですが、いろいろな出来事を呑み込みながら、編みながら、これまでやってきた彼女のもの言わぬ思いが心に触れてきます。
こちらの映画が作られたのは2020年。コロナ禍で人と人との距離ができてしまった時代に、昨年亡くなられたミッシェル監督や作り手の人たちが語りかけるもの。その思いに胸が熱くなります。果たしてケンプトンは何のため誰のために絵画を盗んだのか――。法廷シーンの名演説も必見です。そしてワンシーンしか出てこない近所の女の子をはじめ、何ともかわいくニットを着こなす人たちが所々に登場するのも心をくすぐります。どうぞ隅々までお見逃しなく!