世界手芸紀行

【ドシェメアルトゥ絨毯】トルコ共和国 今なお続く遊牧民の伝統織物

公開日 2023.03.04 更新日 2023.08.10
ライター=野中幾美

コラム
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野中幾美
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毛糸だま 2020年秋号より

<記事中に出てくる情報は本誌掲載当時のものです。>


トルコ語でサルカンタロンと呼ばれるセントジョーンズワートの黄色い小さな花が、アイシェの歩みに合わせるように彼女の手元で揺れています。未舗装の農道脇の水路には山からの湧き水が噴き出し、一筋の流れとなって清涼を運んでいました。その水辺にある無花果の木陰にどっかり座り込み、アイシェは顔の汗を拭いました。


「ほら見て。これで黄土色にウール糸を染めるのよ」


ある初夏の日、うだるような暑さの中、私はアンタルヤのコワンルック村に暮らす、絨毯の織り手の一人である友人のアイシェを訪ねました。ちょうど家から大きな袋を片手に草木染め材料を採集しに出ようとしていたアイシェに誘われて、村の外れの草原を太陽の光にジリジリ照らされながら二人で歩いていたのです。


母から娘に伝わる絨毯織り


トルコの玄関口イスタンブールから南へ約600km、地中海沿岸の都市アンタルヤは365日のうち300日が晴天といわれる温暖な地です。夏の数か月は気温が40度を超える日々も珍しくありません。コワンルック村は、東西に細長いアンタルヤ県の北側、隣接するブルドゥル県境に位置します。アンタルヤの中心部から車で小1時間の標高334mの山裾にある人口約1200人の農村です。


画像1コワンルックはアンタルヤの中心地から約40km、放牧中の羊の群れが行き交うのどかな村


アイシェはこの村で生まれ、育ち、結婚し、子育てをし、半世紀を過ごしてきました。8歳の時に母親の見様見真似で絨毯織りを覚え、自分で作るようになったと言います。


「父が早くに亡くなったから、母は女手ひとつで私と妹を育て上げてきた。昼間は畑仕事をし、夜は部屋で絨毯を織ってね。当時は村に電気がなかったから、幼い私は機はたの前でオイルランプを持って母の手元を照らしていたのよ」


コワンルック村では約250世帯ある各家庭の女性たちの多くが絨毯を織っていました。彼女たちが織る絨毯は26の村を含むこの地域の名前を取って「ドシェメアルトゥ絨毯」と呼ばれています。発祥はコワンルック村で、中央アジアから中央アナトリアのコンヤを経て、この村に定住した遊牧民カラコユンル(黒羊族)によって織られ始め、その周辺の村々へ広まっていったと考えられています。


ドシェメアルトゥ絨毯の基本モデル


ドシェメアルトゥ絨毯は独特なモチーフの組み合わせによるモデルが特徴です。モデルは基本的に七つに分類されます。


1.ハレルリと呼ばれるモデルは分割を意味し、中央のデザインが左右非対称に分割されています。


画像2左右非対称のデザインのハレルリ


2.ダルルは枝のあるモデルの意味で、中央に縦方向にある幹から左右に枝が出ているような形をしています。


画像3枝分かれしたモチーフのダルル


3.トップルと呼ばれるメダリオン型は中央のモチーフが勲章やメダルの形をしています。


画像4中央に勲章の形をしたメダリオンのあるトップル


4.トップル・テラージルはメダリオン部分がテラージと呼ばれる天秤のモチーフになっています。


画像5トップル・テラージルはメダリオン部分が天秤のモチーフになっています


5.ミフラップ(ミフラーブ)は主にお祈り用に作られたものです。モスクの内壁にあるメッカの方向を示す窪みを表しています。


画像6祈祷用に作られたミフラップ


6.2のダルルの中央部にアクレップことサソリのモチーフが入っているタイプ。


画像7ダルルと似たアクレップルは中央部にサソリのモチーフがあります


7.通常4〜5平方メートル以上の大きなサイズの絨毯に使われる、コジャスル。大きなボーダー(縁模様)のことで、絨毯の縁の部分が基本の五つの石が並んだモチーフ以外に別のモチーフが加えられて幅広くなったタイプを指します。


画像8大きな絨毯の太いボーダーを意味するコジャスル


現在でもこの基本モデルを中心に作られ、多少の作り手のオリジナルが入ることもありますが、あまり外れたものは出てきません。女性たちは幼い時から母親や祖母が作るものを見て育ち、それをお手本に作ってきたことで、他所からの余計な情報が入ってくることなく、村の伝統のモデルが継承されてきたのです。


羊の毛刈りから絨毯が織り終わるまで


絨毯を作る過程は、現在では業者によって用意された糸を使って、経(たて)糸を張り、結び目を作りながら「織る」作業が中心です。しかし本来はウール糸を用意するところから始まります。コワンルック村では羊を飼っている畜産農家も多く、4月頃になると毛刈りが始まります。その毛を洗い、梳き、糸を紡ぎます。経糸、結び目を作る緯(よこ)糸、結び目の間につづれ織りをしながら入れていく押さえ糸(ゲチキ)の3種類を紡ぎます。


画像9絨毯に使用されるのは、羊毛をキリマンと呼ばれるお手製の十字型スピンドルで手紡したウール


結び目に使われる緯糸にはそれぞれ色が染められていきます。色は古くは草木染めの赤、黄、青、緑、濃赤、黒、白の7色を基本色とし、現在ではさらにカーキ、杏色、水色、黄土色、グレーなどを含む12〜15色が使われます。


画像10村の周辺で採れる植物で染められた草木染めの絨毯糸


還元藍を甕で発酵させて作る紺、青、水色以外の材料は、全て村の周辺で自生する植物や家の庭に成る果樹から調達されます。赤は西洋茜の根、黄はカモミール、黒は鉱物、緑は青と黄の掛け合わせ。補色としてザクロの皮、クルミやアーモンドの殻、オリーブの葉や茎などが用いられます。媒染剤はミョウバン、羊のお尻の毛を焼いた灰、乾燥させたレモンの皮、以前は牛の尿なども使ったそうです。


画像11村で採集したセントジョーンズワートを大きな釜で媒染剤のミョウバンと一緒に煮込んでウール糸を黄土色に染めます


そして整経作業。家族やご近所さんの手を借りて行います。これが終わるといよいよ織りに入ります。


画像12最低3人の手が必要な整経作業を手伝うのは家族やご近所さん。絨毯の出来に影響するので慎重に


トルコの絨毯はイランなどの経糸2本に対して1本だけに結ぶシングルノットとは異なり、2本に結ぶダブルノット方式。機の上部に下げられた色糸の糸玉から必要な分の糸を取り、一段ごとに必要な糸を結んでいきます。一段結び終わると、ゲチキという押さえ糸をつづれ織りで往復入れます。


画像13結び目を1段入れ終わったら別糸でつづれ織りをして目を固定します


キルキットと呼ばれる櫛のような道具を経糸に沿って打ち込みをし、糸を詰めていきます。そしてまた一段結び目を作っていくのです。それを何度もくり返しながら織り続けていくと、それまでの不規則な色の配列が、やがてモチーフとして目の前に現れてきます。どこに何色を何目入れていくかは、製図や見本を見なくてもわかる、とアイシェは言います。もう同じモデルを何十枚と作ってきたからね、と。


画像14時には村のお友達とおしゃべりをしながら一緒に絨毯織り。村内に残る絨毯の織り手も片手で数えられるほどになりました


アイシェはこうやって40年以上もの間、絨毯を織りながら、母親を支え、娘と息子を大学まで行かせました。


「私には学歴も何もなく、他に選択肢がなかったから生きるために絨毯を織ってきたの。でも娘には他の可能性もある。私のような苦労はして欲しくない」


トルコに限らない話なのでしょうが、この伝統文化の後継者問題はこのコワンルック村でも見られます。


そして、手仕事、人生は続く


最盛期の1970〜80年頃には村の多くの女性が絨毯織りに従事し、織った先から絨毯業者や海外からの仕入れ業者が待ち構えて買っていったほどの人気だったそうです。これは欧米人に人気のトルコ最大の観光リゾート地アンタルヤが近くにあり、カーペット文化を持つ欧米からの観光客の需要があったからです。


私が初めてコワンルック村を訪れた1999年当時ですら、最盛期ほどでないにしても各家庭の軒先に木製の織り機が置かれ、村に入るとコンコーンと響くキルキットと呼ばれる道具の打ち込みの音が聞こえ、女性たちが機の前に座る姿を目にしたものです。あれから21年が過ぎましたが、訪れる度に織り手の数は減り、木製の織り機は軒先で朽ち果て、日常的に絨毯を織っているのは50歳以上の女性が3、4人いるのみです。


織り手の減少の原因として考えられるのはトルコ人の急激な生活様式の変化です。本来コンクリートやタイル貼りの床のトルコの家では絨毯が必須でしたが、機械織りのモダンで安価な絨毯の普及により、手間暇かかる手織り絨毯が求められなくなり、また家の内装の変化により絨毯を敷き詰める必要がなくなり、それに伴い結婚持参品として絨毯を用意する家庭が減りました。つまり、絨毯の織り手たちは昔のように知り合いや近隣住人からオーダーされる機会が激減したのです。


画像15アイシェの家には彼女や彼女の母、妹が過去40年の間に織った絨毯が敷き詰められています


観光客に対する絨毯の販売数の低下の影響もあります。買い付けに来る絨毯業者や外国人がいなくなったことで、村は活気を失い、協同組合も閉鎖し、糸の供給が止まり、村の女性たちには販売ルートの当てもなく、お金にならない絨毯織りに意味を見出せなくなり一人、二人と辞めていきました。


画像16指しているのはケディパティシと呼ばれるネコの肉球のモチーフ


またトルコが、もはや安い労働力を確保できる国ではないことも大きな理由のひとつです。もともと絨毯織りは山村などで農業や牧畜のない農閑期を利用して、女性たちが家の中でこもりながらする作業でした。ところが現在では女性たちは学歴をつけ、外に働きに行くことにより、低賃金で重労働な絨毯織りを継承することはありません。


その一方でアイシェはこう言います。


「私は絨毯を織るしか選択肢がなかったからそうしてきたと言ったけど、もし絨毯がなかったらどうしていたのだろうと考えることもあるのよ。絨毯があったからこそ私は生活の糧を得られたし、人生の楽しみや喜びを感じられたんじゃないかって」


子供たちもそれぞれ独立して、定年退職後オリーブ畑で働く旦那さんとの生活で、今までは子供の学費や家のために絨毯を織ってきたアイシェにも、自分のためだけに費やせる時間が増えたようです。もう無理して絨毯を織る必要はないのに、絨毯織りが日課となっている彼女がその手を止めることはありません。


画像17織りたての絨毯を機から降ろしたアイシェ。誇らしげです


アイシェは今日も、精力的に絨毯を織り続けています。会えない日々でも、覚えたてのスマホで写真や動画を撮って、「今日は絨毯を織り始めたのよ」「明日は、絨毯を機から降ろそうと思っているの」と報告してきます。


アンタルヤの長い夏が続くある日、私は再びアイシェの元を訪ねました。今まさに織りたての絨毯が機から切り離されているところでした。アンタルヤの太陽の温かさが、そのまま絨毯に織り込まれているようでした。絨毯に顔を近づけてすーっと息を吸い込むと。ほのかな羊の毛の匂いとともに、あの日、セントジョーンズワートを摘んだ初夏の草原の香が胸いっぱいに広がりました。



取材・文・写真/野中幾美 編集協力/春日一枝

野中幾美
ライタープロフィール / 野中幾美
東京都生まれ。出版社勤務後、フリーライターを経て、現在、トルコ・アンタルヤにて手工芸品の問屋、及び貿易会社「ミフリ」を経営。またトルコの手工芸の研修希望者の受け入れを行い、200人以上の日本人、トルコ人にキリム、絨毯織りを指導。著書に『トルコのちいさなレース編み オヤ』(誠文堂新光社)がある
http://www.mihri.org
野中幾美
ライタープロフィール / 野中幾美
東京都生まれ。出版社勤務後、フリーライターを経て、現在、トルコ・アンタルヤにて手工芸品の問屋、及び貿易会社「ミフリ」を経営。またトルコの手工芸の研修希望者の受け入れを行い、200人以上の日本人、トルコ人にキリム、絨毯織りを指導。著書に『トルコのちいさなレース編み オヤ』(誠文堂新光社)がある
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